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 芭蕉と曾良が出羽路(現・山形県)に入ったのは、旧暦5月15日(現・7月1日)のことです。尿前の関での取り調べに時間を取られ、堺田に来たところで日が暮れてしまったため「封人の家」に宿を求めました。「封人」とは国境を守る役人のことで、その家は役場、問屋、旅館を兼ね備えたものでした。折しも梅雨末期の豪雨となり、芭蕉たちはそこで2泊を過ごします。文中ではこのくだりに「蚤虱馬の尿する枕もと」の句があって馬小屋のような場所を想像しますが、実際には広い家の中に座敷や客間とともに馬を飼う設備があり、人馬がともに暮らす情景を詠んだものといえます。





 旧暦5月17日(現・7月3日)の朝は快晴で、芭蕉と曾良は山刀伐峠ヘ向かいました。「封人の家」の当主に「山が深くて迷うといけないから」とすすめられて一行は若い案内人を雇いますが、彼は屈強なうえに刀で武装しており、芭蕉は険しい自然以外にも何か危険があるのだろうかと不安になります。覚悟を決めて分け入るとそこは鳥も通わないような深い森で、谷川を登り岩につまずきながらやっとの思いで峠を越えました。案内人との別れ際に、ここはよく山賊が出るのだが無事でよかったと聞かされ、後になって驚くという場面もあります。
 ところで、尾花沢に行くにあたってこの山刀伐越えのルートは最初から決まっていたわけではなく、いくつか候補がありました。もっと南の方を現在の宮城県側から入る行程と、堺田から新庄方面を迂回する行程などです。最終的にはどれも遠回りということで、現在知られているルートがとられました。

 二人は同日昼過ぎに尾花沢に住む友人、鈴木清風宅に到着します。清風は紅花を扱う豪商で、芭蕉とは江戸で親交を結んだ俳人でもありました。時期的に家業多忙だった清風は、同じく地元の俳人である村川素英に芭蕉一行の接待役を託し、新築されたばかりの養泉寺に宿を手配します。芭蕉と曾良はここで大いにくつろぎ、土俗的な行事に参加したり、近在の俳人たちと交遊するなどして過ごしました。この間に清風、素英を交えて「涼しさを我が宿にしてねまる也」を発句とする五吟歌仙ほか、四吟歌仙が詠まれています。
 尾花沢には計10日間にわたって滞在し、旧暦5月27日(現・7月13日)早朝、清風の見送りにより次の目的地である立石寺へと旅立ちました。

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